ひみつの路地裏

心のキャンバスです

若い

若い。心が若いのか体が若いのかはここでは触れないが、某自身が若いと感じる時は必ずと言っていいほど人間関係の中に身を置いている時である。

さて、この人間関係が当人達にとって如何程重要かどうかは当人達のみが知りえることだが、大抵の場合はこう考えてしまう人間の方が、その人間関係に依存しがちなのである。

 

どうでもいいコミュニティであればある程、人間は"それら"が無くなった時のことを考えない。至極当たり前のことではあるが、それは自分自身が無意識のうちに「この関係が崩れても自分には影響がまるでないし、そんなことを考えるだけ無駄だ」と気づいているからである。逆に、その人間関係に大なり小なり依存している人間からしてみれば、その関係が崩れること、即ち死を意味しており、過剰な程に恐怖する。

死という言葉は大袈裟であるという批判は甘んじて受けよう。しかし、どのような規模であろうと人間関係が崩れるということは、相手方の中に存在する概念としての自分が死ぬことを意味しており、その死というのは命を失うことと大差ないのだ。

人間関係が崩壊したくらいで死ぬことはないが(もちろんそれが原因となり自殺してしまうケースも勿論多い)、少なくとも自分が自分で居られる場を無くすというのは、自分のアイデンティティを失うと言っても、過言ではないだろう。

事実、昨今話題にのぼる不登校や自殺、現代人の錆とも言える精神疾患の人々の大半は、人間関係の崩壊やアイデンティティの確立ができなかったことに起因している。

死とはどういうことか、などという話は先達の哲学者へ任せるとして、ヒトが生きている意味を見出すということは重要であり、人生の中で達成すべき課題であることは間違いないだろう。勿論、ここで言う課題は万人に言えるような抽象概念ではなく、本人にしか達成することのできない具体的な「人生のマイルストーン」である。

この"道標"は見つけようとして見つけるものではなく、生きているうちに自分自身の役割を悟り、それに追随して見えてくるものだと某は思っている。しかし、アイデンティティや人間関係の中での役割すら見つけられない人間に、どうして見つけることができようか。そうなると、人間は目的もなくただ生を享受し続けるロストシップになり果ててしまうのだ。最初からこのような人生を歩んでいるものいれば、順風満帆だったにも関わらず些細な種火で大炎上の末に挫折してしまう者もいるので一概には言えないが。

 

某が何を言いたいかというと、ヒトは自身の為に生きているようで、他人に深く関与し、影響を与えながら生きているということである。皮肉にも、自己中心的な人物程、周囲に与える影響は計り知れず、そうして自身の居場所を作っているのである。

良い人ほど苦労する、とは言うが、現代を生き辛く感じている諸氏も、もう少し我儘に自分の道標を建てまくってみてはどうだろうか。某も、それを反芻しながら床に就こうと思う。