ひみつの路地裏

心のキャンバスです

伽藍堂の城

今年の皐月始に24歳を迎える。私事であるが某にとってはひとつの節目なのである。誕生日といえば誰にとっても大なり小なり節目になるが、私にとっては少し特別なのである。

 

就職、就活、労働。とどのつまり、某にとって今年の誕生日は、学生という身分で迎えることのできる最後の誕生日なのである。来年の今ごろは、学生という身分からエクソダスし、社会に荒波の中へ身を投じなければならないのだ。

社会人という身分になれば福利厚生の恩恵に授かることができ、賞与や給与の面でも学生アルバイトとは比べ物にならない程に優遇される。もちろん、それ故に業務量は増え生じる責任も大きくなるが。

 

しかし、社会人とて良い話ばかりでもない。労働基準法違反による超過労働や無賃金労働が横行している現代社会の現状を考えると、先達が憐愍を垂れるのも頷ける。

 

某が高校生であった時にまで話は遡るが、ある大企業の経営者が学内へ講演に来ている時の話だ。大企業の経営者は仰々しく、そしてそれが当然かのようにこう言った。

「全てとは言わないが労災の大部分は雇用者と被雇用者の甘えだ。労働基準法などという馬鹿げた法律の所為で、日本企業の経済成長は大きく阻まれている。君たち学生は、社会へと羽搏いた際に甘えることがないように」と。

随分と昔の話になるので一字一句正しいかと聞かれれば断言できないが、大方そのようなことを公衆の面前で宣っていた。まさに、厚顔無恥とはこのことである。

日本企業の成長などとスケールの大きな話は某の知る処ではないが、「労働基準法を守っていたら潰れてしまう会社」など、潰れてしまえばいいのだ。

ところが、この話を以前医療関係者に話したところ、鼻で笑われてしまった。彼が言うには「労働基準法を守っていては助かるべき命も助からないし、患者の為なのだからしょうがない」ということらしい。某はここに、現代医学が我々へ齎した弊害を見たのである。

「患者の為に」という大義名分さえあれば法すら侵しても良いという基本精神についてはいずれ齟齬が生じるであろうと某は睨んでいるが、そもそも大前提が間違っている。

労働基準法とは、憲法でも保護されている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を侵害する行為を取り締まるものである。人の人として生きる権利を侵害してまで、助けるべき命はあるのだろうか。

言い方は悪いが、それはきっと助けられない命だったのかもしれない。