思い出したような話
カー用品の宣伝でもしたいと思います。
大抵シガーソケットはひとつだと思うんですけど、昨今の車はシガーソケットでUSB給電の環境とか作らなくても、最初からついてたりしますよね。まぁそういう車も結構あるので、実用的かどうかはわかりませんが。
折角車内に装着するパーツなので、なんかカッコイイのないかなと思ってみていたら、こんなのがありました。
自分が買ったのはこれの4つ口版なんですが、まぁ内容は変わりません。強いて言えば、5つ口の方は最初から両面テープがついてます。4つ口はついてない上にケーブルが極太なんで、固定に難アリって感じです。
つけるとこんなん。
ETCがガバガバなのは許してください。時間あったらパテで固めて…とかは思ってるので…。
青く光ってるのが通電している箇所です。自分の場合だとドラレコですね。早いうちにヒューズあたりから電源を取りたいモンです。
取り付けからしばらくは電圧が安定せず繋いだ機械がついたり消えたりしましたが、もしかしたらバッテリー側に問題があるのかもしれません。
ヒューズや配線から電源がとれない!という人には結構お得なモンかもしれません、値段も安いので。
紹介しといてアレなんですが、こういうのって配線が汚くなりがちなので、可能なら裏から電源とった方がいいと思います、勉強にもなるしね。
au携帯の請求金額が24時間で4万円を超えた件
タイトル通りです。ちなみにこの4万円はパケット通信料のみです。具体的な数字を掲げると43705円。
凄い数字ですね。
何故こんなことになったかというと、ズバっと言ってしまえば機種変更手続きの手違いです。
元々通話のみ使う回線が欲しかったので、データプランをつけずに無料通話だけできる契約で運用していました。しかし、使っていたガラケーがお釈迦になってので、眠っていたIS12Fを店頭に持ち込んで、契約内容はそのままに機種変更をしようとしたんです。
念には念を押して「契約はそのままで結構です」と勧誘を振り切り何度も行ったはずなんですが、機種変更後の通話確認の後、スタッフから「Eメールの設定だけ行わせて戴きます」と言われ、待つこと数分。「お待たせ致しました」と渡された携帯の画面には、数字とアルファベットの羅列から構成される初期のメールアドレスが映っていました。
「なんすかこれ」と突っ込むと、きょとんとした顔でスタッフが「お客様の新しいメールアドレスです」と宣う。こいつは人の話を聞いていたのだろうか。
幸いにも店頭で気づいたので即時データプランを解約、なんとか事なきを得たんですが、家に帰って5時間が経ったころ、ふと携帯を見たら「3G」の文字が。嫌な予感しかしない。
怖いので当日中、閉店ギリギリにauショップへ向かい事の次第を伝え確認してもらったところ、「(契約の変更内容は)即時反映が原則ですが、タイムラグ等で反映に時間がかかる場合もあります。その間にかかったパケット通信料はお客様負担となりますのでご了承くださ」とのこと。こいつらのアタマの中にはウジでも詰まっているんだろうか。
俺がクレーマー大納言であれば罵詈雑言を吐き捨てて帰るところだが、あいにく連れがいたので、言葉を飲み込んで退店。二度とauは使わんぞと心に誓う。
事件はこれで終わったのかと思っていた矢先、翌日(つまりこの記事を書いてる今日)にCメールが届く。親かと思い見てみると、宛先に浮かび上がる文字はau。まさかな…と思い中身を開いてみると、
「パケット通信料が2万円を超過しております」
鬼の形相で157にTel、一応結果として限定的にisフラットを適用してもらうことで請求額を5000円程度に抑えることができたが、電話対応ではこれが限界とのこと。あとは直接店舗にかちこんでくれとのお達しを戴いた。
とりあえずどうなるかはわかりませんが、店頭出向いて何かあったらまた追記します。
一応パケ事故かましても何とかなることが多いみたいなので、積極的にサポセンを利用しようねという教訓になりました。
あと田舎のショップは信用ならんから都心のショップ使った方が良いかも。手際もいいしクレーム対応もすんなり通るしねぇ。
雨降って地崩れる
人生、そう諺通りに運ばないのが常で、胆を嘗めさせられることも少なくない。
歩けば棒にぶつかり、木に登れば落ちるような人生を送ってきた某にとっては当たり前のような話ではあるので、一々眉間に皴を寄せるのはもう止めにしている。
しかし、他人はそうも行かぬようで、何か事があるとすぐにあれやこれやと喚き立てる。特に昨今話題に上る「最近の若い者」はそれが顕著であると、年を食って生きてるのか死んでるのかも分からんような老人達は口を揃えて言うのだ。
某にとっては老若男女共々大差なく、若いからだの年を食ってるからだのという言葉は、次に続いて出てくる批判や賞賛を正当化する為の枕詞でしかないのだ。
しかも、そうして大量の地雷や爆弾を撒き散らした人間は、いち早く蚊帳の外へと非難して、第三者のフリをして自己批判を始める。もし世界一厚い皮を決める話になろうものなら、某はそういった輩の面の皮を推したい。
それはともかくとして、大抵そのようなコミュニティは長く続かず、その周囲一帯を焼野原としてしまう。まさに「立つ鳥跡を濁さず」とは対照的である。某は"コミュニティ"と括ったが、これは家族、恋人、親友といったクローズドな空間にも言えることで、起爆剤と成り得る諸要因が多い分、むしろその方が被害は甚大である。「粉塵爆発」とはよく言ったものだ。
些細なことで目くじらを立てない、寛容になると言葉にすれば容易いが、精神的に未熟な若者には難しく、一度おつむが凝り固まってしまった老人にも難しい。故にどこに行っても争いは絶えないのだろうが、某としては、雨が降っても崩れないような確固たる地盤が持てる人間になれればと切に願うのである。
伽藍堂の城
今年の皐月始に24歳を迎える。私事であるが某にとってはひとつの節目なのである。誕生日といえば誰にとっても大なり小なり節目になるが、私にとっては少し特別なのである。
就職、就活、労働。とどのつまり、某にとって今年の誕生日は、学生という身分で迎えることのできる最後の誕生日なのである。来年の今ごろは、学生という身分からエクソダスし、社会に荒波の中へ身を投じなければならないのだ。
社会人という身分になれば福利厚生の恩恵に授かることができ、賞与や給与の面でも学生アルバイトとは比べ物にならない程に優遇される。もちろん、それ故に業務量は増え生じる責任も大きくなるが。
しかし、社会人とて良い話ばかりでもない。労働基準法違反による超過労働や無賃金労働が横行している現代社会の現状を考えると、先達が憐愍を垂れるのも頷ける。
某が高校生であった時にまで話は遡るが、ある大企業の経営者が学内へ講演に来ている時の話だ。大企業の経営者は仰々しく、そしてそれが当然かのようにこう言った。
「全てとは言わないが労災の大部分は雇用者と被雇用者の甘えだ。労働基準法などという馬鹿げた法律の所為で、日本企業の経済成長は大きく阻まれている。君たち学生は、社会へと羽搏いた際に甘えることがないように」と。
随分と昔の話になるので一字一句正しいかと聞かれれば断言できないが、大方そのようなことを公衆の面前で宣っていた。まさに、厚顔無恥とはこのことである。
日本企業の成長などとスケールの大きな話は某の知る処ではないが、「労働基準法を守っていたら潰れてしまう会社」など、潰れてしまえばいいのだ。
ところが、この話を以前医療関係者に話したところ、鼻で笑われてしまった。彼が言うには「労働基準法を守っていては助かるべき命も助からないし、患者の為なのだからしょうがない」ということらしい。某はここに、現代医学が我々へ齎した弊害を見たのである。
「患者の為に」という大義名分さえあれば法すら侵しても良いという基本精神についてはいずれ齟齬が生じるであろうと某は睨んでいるが、そもそも大前提が間違っている。
労働基準法とは、憲法でも保護されている健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を侵害する行為を取り締まるものである。人の人として生きる権利を侵害してまで、助けるべき命はあるのだろうか。
言い方は悪いが、それはきっと助けられない命だったのかもしれない。
若い
若い。心が若いのか体が若いのかはここでは触れないが、某自身が若いと感じる時は必ずと言っていいほど人間関係の中に身を置いている時である。
さて、この人間関係が当人達にとって如何程重要かどうかは当人達のみが知りえることだが、大抵の場合はこう考えてしまう人間の方が、その人間関係に依存しがちなのである。
どうでもいいコミュニティであればある程、人間は"それら"が無くなった時のことを考えない。至極当たり前のことではあるが、それは自分自身が無意識のうちに「この関係が崩れても自分には影響がまるでないし、そんなことを考えるだけ無駄だ」と気づいているからである。逆に、その人間関係に大なり小なり依存している人間からしてみれば、その関係が崩れること、即ち死を意味しており、過剰な程に恐怖する。
死という言葉は大袈裟であるという批判は甘んじて受けよう。しかし、どのような規模であろうと人間関係が崩れるということは、相手方の中に存在する概念としての自分が死ぬことを意味しており、その死というのは命を失うことと大差ないのだ。
人間関係が崩壊したくらいで死ぬことはないが(もちろんそれが原因となり自殺してしまうケースも勿論多い)、少なくとも自分が自分で居られる場を無くすというのは、自分のアイデンティティを失うと言っても、過言ではないだろう。
事実、昨今話題にのぼる不登校や自殺、現代人の錆とも言える精神疾患の人々の大半は、人間関係の崩壊やアイデンティティの確立ができなかったことに起因している。
死とはどういうことか、などという話は先達の哲学者へ任せるとして、ヒトが生きている意味を見出すということは重要であり、人生の中で達成すべき課題であることは間違いないだろう。勿論、ここで言う課題は万人に言えるような抽象概念ではなく、本人にしか達成することのできない具体的な「人生のマイルストーン」である。
この"道標"は見つけようとして見つけるものではなく、生きているうちに自分自身の役割を悟り、それに追随して見えてくるものだと某は思っている。しかし、アイデンティティや人間関係の中での役割すら見つけられない人間に、どうして見つけることができようか。そうなると、人間は目的もなくただ生を享受し続けるロストシップになり果ててしまうのだ。最初からこのような人生を歩んでいるものいれば、順風満帆だったにも関わらず些細な種火で大炎上の末に挫折してしまう者もいるので一概には言えないが。
某が何を言いたいかというと、ヒトは自身の為に生きているようで、他人に深く関与し、影響を与えながら生きているということである。皮肉にも、自己中心的な人物程、周囲に与える影響は計り知れず、そうして自身の居場所を作っているのである。
良い人ほど苦労する、とは言うが、現代を生き辛く感じている諸氏も、もう少し我儘に自分の道標を建てまくってみてはどうだろうか。某も、それを反芻しながら床に就こうと思う。